フローライトスフィア薄緑「白樺の精霊」
この村の白樺は、特別に長生きをしていて、村の人々はこの木を神様のように感じて、とても大切に思っていました。この木の皮や枝や葉をお守りにして持ち歩いたり、この木の下でさまざまな誓いや約束事も行なったりしていました。
一人の中年の女性がこの木の下に腰を下ろしました。名前はエスラ。
エスラには友達もいなければ、家族もいませんでした。彼女は、人間が嫌いでした。騒がしく、自分の興味のないことばかりを楽しそうに語る人、嬉しそうに何かの噂話に夢中になる人、機嫌が悪くて当たり散らす人、「こうしなさい、ああしなさい」と聞いてもいないのに何か言ってくる人、「それは違う、間違っている」と否定してくる人、「うまくいくわけがないよ、諦めなさい、人生とはそういうものだ」と希望を消してくる人、そんな人ばかりがこの世にはたくさんいて、なんて生き辛い世界なんだろう、早くこの世界からいなくなってしまいたい、エスラはいつもそう思っていました。
エスラは、白樺の根元の日陰になっているところに、そっと腰を下ろしました。まだ朝早くて、誰もいないこの時間は静かで、登ったばかりの太陽が美しい黄緑色の葉の間からチラチラと彼女の顔に光を投げかけていました。
エスラはこの時間が一番好きでした。誰も自分に何かを言ってくることもなければ、それに振り回されることもない時間。
エスラはいつも、誰かが話しかけるととても嫌な顔をしました。自分でも抑えられないのだと思っていました。だって、私は人間が嫌いだから。こういう植物や動物の方がよっぽど自分は好きだ、人間はなんてめんどくさいのだろう。私はきっと、こういう周りの馬鹿げた視野の狭い人たちに比べて、自然に近い存在なのかもしれない。
そんなふうに、エスラが考えていると、一人の男性が花を持って木のそばまでやってきました。エスラは気付くのが遅くなり、隠れようとしたのですが、隠れることができず、その男性が近づいてくるのを恐怖の目で見ていました。ところが、その人はエスラに全く気がつきません。エスラのすぐそばに腰を下ろすと小さなため息をつきました。
男性は、ぽつりぽつりと独り言を言い始めました。
「ああ、奥さんの病気が治るといいんだが。少しでも良くなるなら、俺はどんなに幸せだろう」
男性が木の幹に手を当てると、エスラの心の中に、何か温かいものが流れてきました。
それは、エスラの嫌いな“人間”の中に、確かにある光でした。
エスラはそっと男性の横顔を見ました。彼の目は涙で潤んでいて、それでも懸命に前を見ようとしていました。
「この花を彼女に持って行こう。きっと喜ぶに違いない。」
エスラは、自分が白樺の木になったような視点を持ちながら人間を見ているのに気がつきました。誰も、エスラがいることに気が付かないのです。
しばらくすると、今度は若い女性が白樺のところへやってきました。彼女はとても苦しそうな顔をしていました。
「また怒ってしまった。旦那さんにも、子供達にもとてもキツく当たってしまった。私には優しくものを言うということができないんだ」
女性は涙ぐみながら言いました。
「こんな自分、消えてしまいたいって思ってしまう…でも、私がこんなふうなのに、笑顔で“大好き”って言われたとき、泣きそうになるくらい嬉しかったわ。ここに来ると、そのことを思い出せる。今からでも戻って家族に何か美味しいものを作ってあげよう」
彼女は立ち上がると、白樺にそっと抱きついて、そして行ってしまいました。
次に、ストールを頭にかけた女性が、静かに白樺のそばに座りました。女性は泣いていました。
「病気になって、何もできなくなった。でも、こんな時だから気づけた。朝日が綺麗なこと、ご飯を食べられること、誰かが微笑んでくれること…全部、奇跡なんだって。」
その女性は、泣きながらも、瞳に光を宿していました。
「もう無理かもしれないなんて思わない。私は今からでも諦めていたことをやろう。世界はなんて美しいんだろう。」
昼過ぎになり、子供達が何人か木の周りで遊び始めました。子供達は遊びながらお腹の底から笑い、楽しさを発散させていました。「ああ、楽しいな!!」一人の子が叫んだ時、エスラの目から涙が溢れてきました。
子どもたちの笑い声に包まれながら、エスラの心の奥に、静かにいくつもの光が差してきたようでした。男性の胸の奥からこぼれた、愛する人を思うあたたかな願い。あの女性の「ごめんね」と泣きながらも家族を愛おしく思う気持ち。生きていることの奇跡を見つけた病気の女性の光。
……私がずっと人間を嫌いだと思っていたのは、本当は……誰かを信じて、心から愛してみたかったからなのかもしれない。人間の心の奥には、こんなにも痛みと、こんなにも優しさが隠れていたなんて……。それを知らずに、私はただ、怖くて目を背けていただけだった…
エスラは子供たちの笑い声と、木漏れ日を身体一杯に感じながら思いました。嫌なものばかりをみていたのは私だった。人間はなんて一生懸命で美しいのだろう。
その時、一人の子供がエスラに近づいてきました。
「このお花あげる」
エスラは震える手で花を受け取り、笑顔で言いました。
「ありがとう」
エスラは今でも人混みは少し苦手だし、噂話にも心は動きません。けれど白樺の木のように、静かに人の言葉に耳を澄ませ、その奥にある温かな光に目を向けるようになっていきました。自分を守ろうとするのではなく、自分は大丈夫だと思えるようになったのです。
彼女の心にそっと芽生えた、木漏れ日のような緑の光――
それはきっと、「自分のことも人のことも信じる力」だったのかもしれません。
フローライトスフィア薄緑
49,700円(税込・送料・額代込) |